二〇一五年九月一五日

学者ジャーナリズム政治それぞれの役割

学問とジャーナリズムと政治、それぞれの本質的役割


安保法制違憲の立場の小林節教授が興味深い発言をしている。

産経ニュースより抜粋する。


/*産経ニュースより引用はじめ


http://www.sankei.com/politics/print/150909/plt1509090030-c.html

小林節教授は622日、衆院特別委員会においてこう述べている。





 「われわれは大学でのびのびと育ててもらっている人間で、利害は知らない。条文の客観的意味について、神学論争を言い伝える立場にいる。字面に拘泥するのがわれわれの仕事で、それが現実の政治家の必要とぶつかったら、そちらが調整してほしい。われわれに決定権があるとはさらさら思えない」


引用終わり*/

神学論争という言葉に飛びついて彼を批判したくなった保守論壇の人士もいると思うが、「利害は知らない」、「神学論争」は、ある意味学者の役割として正しい。


しかし、正確には、「神学論争を言い伝える」ではなく、「神学論争をする

のが学者の一つの役割であり、一つの固定された見解を言い伝える語り部のようなものではないし、もっとも大きな間違いは、


「字面に拘泥するのが我々の仕事」


と言っている点である。


学者が拘泥するのは、


「学問的真理」のみであり、「その一部でしかない字面のみに拘泥する」のは、学者の仕事ではない。彼は、根本的に学者としての役割を誤認している。


学問的真理の核を構成するのは、


「物理、数理的感覚とそこから展開される、生物学的真理、そして、それらに基づく、人間の一人としての判断である。」


その為、生物学的に(その背景を辿って行くと物理的に)なぜ、人間が法律を生み出したのかという学問的問いに“拘泥”できないものは、そもそも、法律を巡って「神学論争をする資格がない」のである。


生物的な人間の生存戦略を抜きにした法律論争は、学問的真理にそもそも基づかないので、単なる小学生の遊びであって、学問ではない。


なぜ、殺人をするといけないか。


という問いを発したドラマなどが散見されるが、殺人が、法律で禁止されるには、生物学的な裏付けがあるのである。


それは、


生存繁栄のためのエネルギーを無駄遣いする遺伝子群(群れを構成する遺伝子)は滅びる


という原則に対応したものである。


このため、必要以上に好戦的な遺伝子は、法律によって、人間社会から排除される。


したがって、遺伝子群の利益に合致する殺人(例えば、戦争行為で敵を倒すことや、犯罪者の犯罪行為を阻止するために警察官が犯罪者を射殺すること、正当防衛など)は、


法律的にも肯定されなければならない行為


である。したがって、法律はそのように構成されている。


つまり、法律にそれが書いてあるので、そのような制約があるのではなく、生物学的な遺伝子群としての日本国民の生存戦略に適合するように法律を書き、そして、効力を与えているという認識こそが正しいのである。


つまり、全ての関連する法律は、主権者を構成する遺伝子群の生存と繁栄を補助するために存在しているに過ぎない存在である。


なぜならば、主権者こそが、全ての法律に効力や力を付与している力の根源であるからである。


従って、小学生の遊びではなく、本来の学者ならば、以下の問いに即座に答えることができないといけない。


憲法を含めたすべての法律の条文は、直接的に主権者全体の生存権を侵害することができるか?


答えは、できないである。


全ての法律に力を付与しているのが主権者であって、その生存権を直接的に侵害する条文は、如何なる、正当な手続きを踏んでも定めることができない。


という認識を持つことが正常な学者としての判断である。


このように考えれば、憲法9条について、学者が展開すべき神学論は、明らかであるように思う。


結論も出たと思うので、ここで、学者、ジャーナリスト、政治家それぞれの立場を明らかにしたい。


学者は、事実の認識、そこから派生する解釈の全てを、自らの把握している事実から展開しなければならない。この点で、事実から派生すること以外は言わないし、余計な影響を受けないという点において、神学論争は、大いにありである。勿論、事実に基づくという前提で、考えるならば、そのルールさえ守っていれば、思想、立場の自由も大いにありなのである。


そして、ジャーナリストは、事実の認識は事実そのものに基づくが、解釈のある程度の自由を有するのである。それは、事実から、そこまで言えないような大胆な解釈を社会の一般大衆は時に必要とし、そして、ジャーナリズムは、この後記述する政治と学問のスムーズな橋渡しをするのが役割であるからである。だから、ジャーナリズムの解釈においては、事実の認識がしっかりしているならば、解釈には、ある程度の自由度があるのである。すなわち、新聞などのメディアは、ある程度の偏りを許されていると認識すべきである。


最後に政治家であるが、これは、政治的な正しさに生きるものであり、解釈だけでなく、事実の認識においても、遺伝子群の生存のためにある程度の自由度を与えられている。つまり、現実の運転手なのである。


これらの役割分担は、実に、システムとしてよくできている。


学問が基準時刻をさし、政治家は、国家国民の生存のために時に時刻を曲げる。しかし、曲げたということは分かっていないといけないため、これらの役割は分かれており、学問は、常に基準時刻を指している。


政治的な「学者」がバカにされるのは、このためである。


基準時刻を曲げてしまったら、本来どうあるべきかさえ、主権者自身がわからなくなってしまう。そしてジャーナリズムの役割は、両者の間のクッション材である。


我々は、このような、本来のあるべき姿をよく理解して、様々な問題に対してあたらなければならない。


菊地 英宏

山口多聞記念国際戦略研究所 代表



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wadatsumipress at 00:34│Comments(0)菊地英宏 

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