<<集団的自衛権をめぐる不毛な議論を正す>>※加筆修正安保法制とこれまでの反対運動について

二〇一五年六月七日

<<欧米の歴史研究者の声明が示唆する日本の歴史研究の未来>>

欧米の日本研究者187人が、「日本の歴史家を支持する声明」を出した。筆者は、

http://www.asahi.com/articles/ASH575KGGH57UHBI01Y.html

にて、その日本語訳後の全文を拝読した。


まず、私は、彼らが忘れている一つの、しかし、致命的に重要な事実を指摘しなければならない。学者が生きるのは、Political Correctness (PC:政治的な正しさ)の世界ではなく、学問的正しさであって、そこには、いかなる事柄にも、存在するのは、事実であり、そしてそこから、物理や数学、そして、生物学といった自然科学を使って、言うことのできる解釈だけを言うことが認められているということである。もちろん、気持ちやイデオロギーを持つことは自由であり、どのような立場から、仕事をしようが自由である。しかし、学者としての発言の際に、事実と科学に基づいた解釈以外を口にするのは、失格である。




声明の中にこのような段落があります。

引用はじめ

 多くの国にとって、過去の不正義を認めるのは、いまだに難しいことです。第2次世界大戦中に抑留されたアメリカの日系人に対して、アメリカ合衆国政府が賠償を実行するまでに40年以上がかかりました。アフリカ系アメリカ人への平等が奴隷制廃止によって約束されたにもかかわらず、それが実際の法律に反映されるまでには、さらに1世紀を待たねばなりませんでした。人種差別の問題は今もアメリカ社会に深く巣くっています。米国、ヨーロッパ諸国、日本を含めた、19・20世紀の帝国列強の中で、帝国にまつわる人種差別、植民地主義と戦争、そしてそれらが世界中の無数の市民に与えた苦しみに対して、十分に取り組んだといえる国は、まだどこにもありません。

引用終わり

不正義とは、何でしょうか。苦しみとは、何でしょうか。一つずつ、問題点を指摘すると、確かに、「不正義」という言葉は、PCに生きる政治家たちにとっては、人々の歓心を買うために大好きな言葉です。しかし、本来、道徳とは、正義とは、何でしょうか。

それは、そもそも、われわれの脳の中の古い脳の中に埋め込まれた行動の評価関数なのです。遺伝子の群れの生き残りにとって好ましいことをすれば、よいこと、あるいは正義、好ましくないことをすれば、悪いこと、あるいは、不正義と感じるようになっているのです。

たとえば、非生産的な殺人や争い、これは、群れのエネルギー効率を悪くします。そのようなことを、好ましいと考える、生物は、滅ぶでしょう。

非生産的な殺人や争いは、道徳的に否定されるのに、戦争において、敵を倒す行為は賞賛されるのは、正義感というものが、そもそも群れの生存戦略であることを踏まえれば、当たり前のことなのです。

たとえば、男女間のフェアな関係は、群れが、優れた遺伝子に移行していくためには、男女間のフェアな緊張関係に基づいて、互いに優秀な(つまり、現在の群れの生存にとって望ましい)遺伝子が選び取られることを、促進しなければならないことを理解すれば、納得できます。

このため、群れの生存が、より、腕力によるところが大きかった昔は、もちろん、遺伝子が腕力を理由に選び取られることが適切だったといえるかもしれません。

このように私たちの価値基準、道徳、正義感といったものは、すべて、生物としての生存のための戦略であり、あくまで(その時間において)その遺伝子の群れの生存にとって、利益か、不利益かということでしかありません。

あたかも、絶対の正義があるという主張をする人間がいる場合、われわれが、一番疑うべきなのは、「絶対の正義(われわれの群れの利益)に従いなさい」という言葉の裏には、「あなた方の群れの利益(すなわち、あなた方の正義)には、反するかもしれないが」という言葉が隠されているということです。

アメリカが、日系人に謝罪したのは、「そのほうがアメリカにとって利益になる。即ち、正義である。」からでしかありません。

以上のことから、もし、彼らが、学者として振舞うのであれば、「不正義」や「侵略(すべての戦争は、"武力による"勢力圏の"一次的にせよ"変更を伴うものである)」、「虐殺(焼夷弾で焼き殺す、銃剣でさす、爆弾でバラバラにする、原爆で蒸発させる、あらゆる殺し方に残虐さの優劣をそもそもつけられるのか)」といったPCの世界の手垢のついた「色つき」の言葉は、使うべきではありません。

そして、もう一つの問題、苦しみに真剣に取り組むとは、何でしょうか。

これは、「政治的な演説」ではなく、歴史学に取り組む学者の声明であることを考えるとわれわれは、致命的な学者としての怠慢を指摘しなければなりません。

世の中には、さまざまなことがあります。

「通州事件」や「重慶爆撃」
「真珠湾」
「東京大空襲」や「広島」、「長崎」

すべての苦しみや悲しみ、あらゆる感情に取り組むのが歴史家の仕事でしょうか?
あえて書きますが、すべての人間には動機があり、歴史家たちにも、そして、この私にも動機はあります。そして、その意味で「気持ち」はとても大切なものです。それを否定はしません。

しかし、「通州事件」を過大評価して、「重慶爆撃」を軽んじるとか、「重慶爆撃」を過大評価して、「通州事件」を軽んじるとか、感情論では、そのようなことになります。

たとえば、通州でなくなった邦人の苦しみに寄り添えば、その後の中国大陸での帝国陸軍の行動には、「弔い合戦」という意味をもたせられるかもしれません。

しかし、そのような苦しみを含めた感情に取り組むことは、学問として無益なことです。学者として無能という意味で、この上なく恥ずかしいことでもあります。

これは、学者が「政治的な発言をしては、いけない」ということではなく、「学者が連帯して、政治的な発言をすること」がいけないといっているのです。それは、彼ら自身が、「学者」ではなく、PCに生きる「政治家」と見られることになり、何より、彼ら自身の今までの功績に泥を塗ることになるでしょう。

最後に、学者として、彼らの不誠実な姿勢を指摘せざるを得ないことは痛恨の極みですが、彼らがもはや、学者としての立場を放棄した段落があるので、指摘します。

引用はじめ

「慰安婦」の正確な数について、歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、永久に正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません。

引用終わり

こんな、基本的なことを指摘しなければならないことはとても悲しいのですが、

この書き方では、彼らは、「慰安婦」の数の有効桁数はどうでもよいと言っているのです。もし、日本政府側が、1人の単位まで、慰安婦の数を確定させろと要求するのなら、彼らは、ある程度の有効桁数の範囲内は仕方がないと言えるかもしれません。

桁数が十倍違うとは、どういうことでしょうか。

有効桁数は0だけれども、あったことは確かですって「学者」の言うことですか?
一体、どのような根拠に基づけばそのようなことが言えるのでしょうか。

こういうことを許したら、たとえば、

"米軍が組織的に、ベトナムで、民間人を大規模に殺すように命じ、その結果、1人の民間人が殺されました"という「歴史家」の解釈も許されることになるのです。

こういうことを声明として出して「学者」として通ると思っているのは、道徳を背景にした「脅し」が通用すると考えているからです。

「加害の事実」について、事実関係を調べ直して、その結果、それが、事実でない、もしくは、誇張されたものだと気付いても、「道徳に疎い人」と思われたくなければ、黙っているだろうというわけです。

もちろん、そのような姿勢は、本来、学者の採るべき姿勢ではありませんが、彼らは、彼らのような一般的な「歴史家」が、PCに生きる政治家の「便利な道具箱」であり、本来の「学者」や「研究者」では、ないと教えてくれているのです。

それがわかれば、今後、どのように日本における歴史研究を進めればよいか自ら、答えは、出ると考えられます。少なくとも彼らを範にしてはいけないことは、明らかだと考えられるし、それは、日本の歴史研究が世界をリードする可能性があることを指し示す、大きな希望だと思う。


菊地 英宏
山口多聞記念国際戦略研究所 代表
博士(工学)



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wadatsumipress at 22:02│Comments(0)菊地英宏 

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